読書家のための偏見作品紹介

主に小説の紹介、書評で人生を設計したい

平沢進のSF的創作性を解体する

さて、テクノポップのパイオニアとして知られる平沢進について、別にその音楽性についてはさほど関心のない俺だけれども、その哲学的思索性に基づいた創作性には目を見張るものがある。

f:id:chisui_net:20211116184444j:plain


たとえば上の記述からは、どのような主張が読み取れるだろう。



まずは、ここでの平沢がどういう人間を演じているのか。

これはひとえに、「古い人間」になりきっているにちがいない。




そもそもインターネット黎明期を称賛している時点で、いわゆる「懐古厨」を演じているわけだ。

そういうのが、とくに若者からは嫌われるのは分かり切っているだろうに。

おそらく、自分はインターネット黎明期の主人公(少なくとも音楽においては)だという考えから、いつもその時代を中心に現代を捉え、意見するという立場でなければならない、という使命感のようなものがあるのだろう。



しかし、シオドア・スタージョンなんかを引用したのには、少ししらけてしまった。

そんなに(中途半端に)古いSFを引用するなんて、もしかして、ほんとに「懐古厨」なんだろうか、と思ってしまう。

テクノ的ニューウェーブを巻き起こした人が、そんな懐古厨だとは考えにくいけども。






平沢進がSFにうるさいのは分かったとして、もっとも注目すべきは、「SFなどというジャンルはまだこの世に存在するのか」という問いだろう。

じつはこの問いかけは、SFというジャンルが生まれてからというもの、いつの時代のSF作家をも悩ませつづけてきた問題である。



なぜなら、SFというのはたいていが「(皮肉な)未来」をえがいているため、それが現実に追いつかれた時点で、そのジャンル性は消失するからだ。



そして現実の速度というのは絶えず加速しているので、もはや未来を想像することすら難しくなってきている。

ブルース・スターリングの言葉を借りれば、「現実の急速な拡張によって、フィクションの立ち入る場所がなくなりつつある」のである。



そのとき、スターリングがあつかったSFは、「現実それ自体を描く」というものだった。

現実はもはや未来である、というのがスターリングの主張だったのだ。



このスタイルは、のちに「サイバーパンク」と呼ばれて、80年代のSFを形成した。



同じくしてサイバーパンクを開拓し、スターリングと並べられたウィリアム・ギブスンは、自身およびサイバーパンクの代表作とされる「ニューロマンサー」の舞台を日本の千葉にした理由について、「日本は未来の国だからだ」と答えている。



そのあたりから、SFというジャンルは現代小説の側面を獲得した。



サイバーパンクの歴史からも分かるように、SFは「ジャンル性を変化させる」ことで、その消失を逃れてきたのだ。

これはSFが 空想科学 → ニューウェーブ → サイバーパンク → 非主流文学(いまここ) という歩みが示しているとおりだ。



この先もまた、いくどとなくSFが存在意義を問われるようになるたびに、その未来を作り出そうとするアーティストたちの努力によって、その形式が変化されてゆくのだろう。



われわれが必要なのは、その変化に追いつくことなのだ。



200年前の20倍の速度で、時代的流行が変化すると言われる現代に追いつくというのが、どれほど難しいことなのか、今さら知らない現代人などいるまい。



そして平沢進は、その努力をしない立場にある。

少なくとも、現代を肯定するのではなく、自分の生きたインターネット黎明期の文化に立ち返らせようとする立場が、自分のいるべき場所なのだと考えているようだ。




たしかに彼のような人間にしかできないんだろうが、そんなふうに自分を大御所だと考えるようになったクリエイターは、俺はどうにも苦手だけども。




この平沢の主張をとおして、俺がもっとも強めたものは、自分は未来を生きている人間だという自覚である。




これに関して、最近はとく取り上げられる新概念の「Z世代」というのに、俺が含まれていることは、けっして無関係ではないだろう。

Z世代とは(中略)、前述のとおり、生まれた時にはインターネットが普及しており、主にブログやSNSから本格的なインターネット利用を始めた世代である。その直後にはスマートフォンが登場し、スマートフォンに最適化された生活を享受してきた(所謂「スマホ世代 (iGen)」)。検索エンジンで世界中の情報を瞬時に検索し、SNSで他者と繋がることを前提として生活しているため、インスタントな物を好む傾向にあるが、古典的なアナログ中心の生活に対して新鮮味を覚える事も多い。主にインターネットの商用利用が開始されていない時代に生まれ、成長期において発展途上にあったパソコンでインターネットを利用せざるを得なかったミレニアル世代と比較して、インターネットを日常生活に大胆な形(特にTwitterInstagramYouTubeTikTokなど)で取り入れ、自分ならではの新しい体験を追い求める傾向にある。ジェネレーションZにとっては原風景にインターネットが溶け込んでおり、最早インターネットの無い世界を想像することが難しい程である。(Wikipediaより引用)

この時点から分かるように、俺たち「Z世代」は、インターネットというただ一点において、ほかのどの世代の人間も知らない経験をしている。

もはやインターネットは、俺たちのアイデンティティのはずだ。

インターネットが否定されるのは、俺たちが否定されているようなものなのだ。




そしてなにより、「インターネットの無い世界を想像することが難しい」からこそ、平沢のような黎明期の人間、すなわち「時代のつなぎ目」に詳しい人間の意見には、後ろ指を指されているような気がするわけだ。



インターネット黎明期の人間は、俺たちの直系の先祖であり、一方で時代についていくことをあきらめた人間たちだ。

彼らに皮肉を言われるのはしかたないが、俺たちも彼らに言い返せるだけの皮肉を用意する必要がある。



どんなものにも黎明期があって、最盛期があり、そして衰退期があるのだから。



俺たちがなしとげなければならないのは、最盛期から学んだプロセスを生かして、次の黎明期を作り出すことのはずだ。



しかし次の黎明期とは、果たして何が訪れるんだろう。

フーコーのような高度な医学社会か、それとも欲求が失われた非推進社会なのか。



これらを考察することこそ、次のSFに担ってほしい。

それが、俺の考えるSFである。