平沢進のSF的創作性を解体する
さて、テクノポップのパイオニアとして知られる平沢進について、別にその音楽性についてはさほど関心のない俺だけれども、その哲学的思索性に基づいた創作性には目を見張るものがある。
たとえば上の記述からは、どのような主張が読み取れるだろう。
まずは、ここでの平沢がどういう人間を演じているのか。
これはひとえに、「古い人間」になりきっているにちがいない。
そもそもインターネット黎明期を称賛している時点で、いわゆる「懐古厨」を演じているわけだ。
そういうのが、とくに若者からは嫌われるのは分かり切っているだろうに。
おそらく、自分はインターネット黎明期の主人公(少なくとも音楽においては)だという考えから、いつもその時代を中心に現代を捉え、意見するという立場でなければならない、という使命感のようなものがあるのだろう。
しかし、シオドア・スタージョンなんかを引用したのには、少ししらけてしまった。
そんなに(中途半端に)古いSFを引用するなんて、もしかして、ほんとに「懐古厨」なんだろうか、と思ってしまう。
テクノ的ニューウェーブを巻き起こした人が、そんな懐古厨だとは考えにくいけども。
平沢進がSFにうるさいのは分かったとして、もっとも注目すべきは、「SFなどというジャンルはまだこの世に存在するのか」という問いだろう。
じつはこの問いかけは、SFというジャンルが生まれてからというもの、いつの時代のSF作家をも悩ませつづけてきた問題である。
なぜなら、SFというのはたいていが「(皮肉な)未来」をえがいているため、それが現実に追いつかれた時点で、そのジャンル性は消失するからだ。
そして現実の速度というのは絶えず加速しているので、もはや未来を想像することすら難しくなってきている。
ブルース・スターリングの言葉を借りれば、「現実の急速な拡張によって、フィクションの立ち入る場所がなくなりつつある」のである。
そのとき、スターリングがあつかったSFは、「現実それ自体を描く」というものだった。
現実はもはや未来である、というのがスターリングの主張だったのだ。
このスタイルは、のちに「サイバーパンク」と呼ばれて、80年代のSFを形成した。
同じくしてサイバーパンクを開拓し、スターリングと並べられたウィリアム・ギブスンは、自身およびサイバーパンクの代表作とされる「ニューロマンサー」の舞台を日本の千葉にした理由について、「日本は未来の国だからだ」と答えている。
そのあたりから、SFというジャンルは現代小説の側面を獲得した。
サイバーパンクの歴史からも分かるように、SFは「ジャンル性を変化させる」ことで、その消失を逃れてきたのだ。
これはSFが 空想科学 → ニューウェーブ → サイバーパンク → 非主流文学(いまここ) という歩みが示しているとおりだ。
この先もまた、いくどとなくSFが存在意義を問われるようになるたびに、その未来を作り出そうとするアーティストたちの努力によって、その形式が変化されてゆくのだろう。
われわれが必要なのは、その変化に追いつくことなのだ。
200年前の20倍の速度で、時代的流行が変化すると言われる現代に追いつくというのが、どれほど難しいことなのか、今さら知らない現代人などいるまい。
そして平沢進は、その努力をしない立場にある。
少なくとも、現代を肯定するのではなく、自分の生きたインターネット黎明期の文化に立ち返らせようとする立場が、自分のいるべき場所なのだと考えているようだ。
たしかに彼のような人間にしかできないんだろうが、そんなふうに自分を大御所だと考えるようになったクリエイターは、俺はどうにも苦手だけども。
この平沢の主張をとおして、俺がもっとも強めたものは、自分は未来を生きている人間だという自覚である。
これに関して、最近はとく取り上げられる新概念の「Z世代」というのに、俺が含まれていることは、けっして無関係ではないだろう。
Z世代とは(中略)、前述のとおり、生まれた時にはインターネットが普及しており、主にブログやSNSから本格的なインターネット利用を始めた世代である。その直後にはスマートフォンが登場し、スマートフォンに最適化された生活を享受してきた(所謂「スマホ世代 (iGen)」)。検索エンジンで世界中の情報を瞬時に検索し、SNSで他者と繋がることを前提として生活しているため、インスタントな物を好む傾向にあるが、古典的なアナログ中心の生活に対して新鮮味を覚える事も多い。主にインターネットの商用利用が開始されていない時代に生まれ、成長期において発展途上にあったパソコンでインターネットを利用せざるを得なかったミレニアル世代と比較して、インターネットを日常生活に大胆な形(特にTwitter、Instagram、YouTube、TikTokなど)で取り入れ、自分ならではの新しい体験を追い求める傾向にある。ジェネレーションZにとっては原風景にインターネットが溶け込んでおり、最早インターネットの無い世界を想像することが難しい程である。(Wikipediaより引用)
この時点から分かるように、俺たち「Z世代」は、インターネットというただ一点において、ほかのどの世代の人間も知らない経験をしている。
もはやインターネットは、俺たちのアイデンティティのはずだ。
インターネットが否定されるのは、俺たちが否定されているようなものなのだ。
そしてなにより、「インターネットの無い世界を想像することが難しい」からこそ、平沢のような黎明期の人間、すなわち「時代のつなぎ目」に詳しい人間の意見には、後ろ指を指されているような気がするわけだ。
インターネット黎明期の人間は、俺たちの直系の先祖であり、一方で時代についていくことをあきらめた人間たちだ。
彼らに皮肉を言われるのはしかたないが、俺たちも彼らに言い返せるだけの皮肉を用意する必要がある。
どんなものにも黎明期があって、最盛期があり、そして衰退期があるのだから。
俺たちがなしとげなければならないのは、最盛期から学んだプロセスを生かして、次の黎明期を作り出すことのはずだ。
しかし次の黎明期とは、果たして何が訪れるんだろう。
フーコーのような高度な医学社会か、それとも欲求が失われた非推進社会なのか。
これらを考察することこそ、次のSFに担ってほしい。
それが、俺の考えるSFである。
俺はきっと長い悪夢を見ている
ホテルで同行者の要望により、メメントを見る。
スリップストリーム(非主流文学)を代表する映画であり、俺の大好きな映画作品のひとつである。
メメントを見た人間なら、かならず思うだろう、
「メモにとらなきゃ分からん」
そうして2度目を見て、メモを時系列を意識しながらとり、その完成図に達成感を覚えるのである。
俺もかつて、自分で作ったメモがしっかりと頭に入っているので、ある程度のストーリーラインが理解しているのだが、それでも、あのモノクロ描写のような夢遊感覚に陥るのである。
その感覚が、むしろ、カラー映像のときほど強まるという不可解さも相まって。
これは共感されるのか分からないのだが、メモを完成させ、ストーリーの時系列が分かっているからこそ、作品の実際性が薄れるからではないのだろうか。
物語のクライマックスにして、時系列で言うところの最初にあたるテディの告白シーン。
あれが糸を引いているんだろうか。
つまり、すべては元から存在しなかったのではないか、という疑念だ。
すべての出来事は夢だったのか。
すべての存在は偽物だったのか。
そして、視聴者は最後に問いかけるのである。
「もしかして、わたしも?」
懐疑の自己内包。自己の対象化。
これこそ、哲学的文学の本質である。
おそるべし、メメント。
9月の札幌
どういうわけか、15日から札幌に来ている。
離陸する関空に向かっていた時点で忘れていることに気付いたのはパンツと靴下だけだったが、着いてみて上着がないと困ることが予想できなかったのは、俺の想像力が欠如していたせいである。
ここにきて、自分がこれほどまでシミュレーション能力に優れない人間だったことに気付くとは。
まあ、忘れ物をしなかったことなどないので、別に新鮮さはないんだけども。
海鮮とジンギスカン、寒いのにスカートを短くする少女たち、それから夜の街すすきの、どこをとっても面白みはある。
大学のゼミに旅行先から参加するというのも、貴重な経験だ。
昨日はレンタカーで五稜郭を訪問。
片道300㎞、往復して12時間の運転。
現地の滞在時間は30分。
そう、俺たちは逆境的なドライブがしたかっただけである。
今日の夜はカラオケとまんだらけと札幌ラーメンの予定。
おみやげは数人分を計1万円以内に抑える。すでにかなりの出費だが、はたしてお金は持つんだろうか。
ふむ、札幌、住むには不向きそうだ。
なぜ反戦映画は嫌われるのか
タリバンに関する嫌なニュースが続くけれども、アメリカ軍が戻らない以上、タリバンを追い出すことは事実上不可能だろう。
この情勢に伴って、三年前に、TIME誌のタリバン特集で話題となった女性の写真が注目を浴びている。
鼻がなくなるって、どんな感じだろう。
匂いがかげないだけでない、味も分からなくなるし、周囲の状況を把握することが難しくなる。
まあ、そんなことくらいしか思いつかないんだけども。
はてさて、こうなったのは、ある意味では戦争がなくなったせいだ、とも考えられる。
アメリカ軍が撤退したせいで、タリバンを抑制するものがなくなったせいなんだから。
戦争反対、という意見は、あくまで戦争をしなくても平和な国に限って正義というわけだ。
ちょうどフルメタル・ジャケットの話題も、最近にあったばかりだから。
ところで、監督したキューブリックが、フルメタル・ジャケットが反戦映画だと評されるのをひどく嫌がったという話はご存知だろうか。
たしかに、フルメタル・ジャケットはあくまで、戦争を忠実に、あるいはシニカルに、描いただけの映画に過ぎない。
そこにメッセージ性など少しも残されていないのだ。
では、俺がフルメタル・ジャケットをどのように見ているのかだけ、要点を絞って書いておく。
ちなみにフルメタル・ジャケットは、アマプラでも見れるので、見たことなかったら是非見てみてください。
先に宣伝しておきます。
1,人間を描いている
フルメタル・ジャケットは文学的な作品である。
事実、原作が小説なので、忠実に映画で再現すれば、文学的になるはずだろう。
あれは、いわゆる軍人の人間性を描いているのだ。
しかし序盤は、案外そうでもない。
軍隊という体裁のもと、人間の普遍的な集団心理を描いているように思う。
特に驚いたシーンは、足を引っ張っていた「ほほえみデブ」こと、レナード・ローレンスが夜中に仲間からリンチを受けるシーン。
ローレンスのせいで、連帯責任の罰を食わされた仲間たちから、夜中に眠っているところを襲撃されているシーンは、人間のあまりに生々しい集団心理が描かれていて、グロテスクに思った人も少なくあるまい。
集団のお荷物は、ああやって粛正される。
いやだねえ、集団になった人間ってのは。
そうは言っても、俺はどちらかというとローレンス側の人間なので、彼の方を擁護したい。
というのも、俺自身が発達障害(ADHD、ASD)だから、遅刻癖が異常だったり、意味も無く話し続けてしまう部分があったりして、嫌われてきた経験を嫌というほど持っているので、今さら集団のうちの多数側の気持ちなど分からないのだ。
だから、どうしても、ローランドの立場になってしまう訳である。
普通の視聴者は、映画のキャラでは弱者を擁護したくなる、というヒーロー意識によって、ローランドを擁護するかも知れないが、俺にとってはただの共感である。
まあ、俺の場合は治療もしたし、努力次第でどうとでもなるんだろうが、俺自体が嫌われたりすることをいとわない性格であることや、まだ社会に出ていない若年というのもあって、あまり努力する気にはなれない。
こんなものは、もはや先天的な個性、という程度にしか思ってない。
今後、就職とかが決まって、何十年も所属する組織とかになると、当然ながら努力はする。
そのためには、今のうちから、その訓練をしておくべきなんだろうけど。
あと、発達障害を患っている患者は近年急増していて、今や全体の17~19%くらいらしい。
だから集団で浮いている奴を見ると、あいつも発達障害なのかも知れんな、と馬鹿にしたりもする(まったく馬鹿にできる立場ではないが)。
俺は基本的に、発達障害者は擁護しない。
だって、関わるの面倒だし。
コミュニケーション能力がないんだよな、あいつら。
だからその分、俺のことを受け入れてくれる人間には、俺なりに努力して接するようにしてはいる。
だから今はいいんだろうけど。
ああ、社会に出たくない。
2,それでも戦争を描いている
フルメタル・ジャケットはベトナム戦争に派遣される兵士の話だ。
ベトナム戦争がどういう戦争か、知っている人には分かるだろうが、あれは確かにアメリカが悪役だ。
そしてベトナム戦争は、アメリカ国内でも反戦運動が急激に高まった時期でもある。
その題材を扱っていることもあって、この映画は反戦映画だと勘違いされているんだろう。
意外かも知れないが、当時の反戦運動を高めたきっかけは、実は戦争であった。
戦争が始まると、自分たちの家族(の男たち)が実際に戦地に赴くことになるので、戦争があまりに身近な問題となり、かえって反戦意識が高まるというわけである。
だから日本のように、「戦争放棄」などという世界で唯一の「戦争しない宣言」をしている国では、戦争など遠い彼方の話にしか思えず、反戦など訴える気にもならない人が多いし、戦争が起こったら日本もろとも死んでやる、などという訳の分からない思想が芽生えるわけである。
とまあ、そんな風な反戦意識と、この映画は実は無縁である。
実際、戦争に関する国家のこととか、何も描かれてないじゃない。
ただ、戦場は怖い、戦場では仲間が死ぬ、敵は女でも殺す、というような個人的倫理観の描写ばかり。
しかも、こうやって言葉にしてみれば、別に特別なことを描写しているわけでもないことが分かる。
これはただのリアリズムで、実際のものを忠実に描いているだけなのだ。
その描写の残酷さと、リアルさが混じり、そこにキューブリック流の並外れたギャグセンスが入ることで、あの作品は異色の傑作となったのだ。
キューブリックが反戦映画だと評されるのを嫌ったのは、シュールな現実から目を背け、すぐに道徳的なメッセージ性を映画に求めたがる大衆性を嫌ったからだろう。
つまり、この世を正義と悪で分けて、正義を取り上げることで金儲けしようとする、そういう大衆産業を嫌った、ということだ。
うんうん、キューブリックが正義だと思うよ、俺は。
だって俺は、この世を正義と悪で分けたがる、大衆のひとりですから。
3,異常なギャグセンス
さっきも少し触れたけど、キューブリックのギャグセンスは、やっぱりすごい。
ギャグの魅力、そして役割は、作者の特徴を全面的に表すことである。
そして、ギャグというのは、要するに人を笑わせることは、何よりも難しいことでもある。
その二つを融合させたギャグで、かつキューブリックを上回るギャグセンスの持ち主を、俺は知らない。
「お前はまるで、そびえたつクソのようだ!」
映画で教官が発したこの言い回しは、当時の日本で話題となった。
これはキャラのセリフ、つまりキューブリックが書いたセリフを、完全に直訳したことで、こんな変な感じになったのだが、実は最初の翻訳では、翻訳を担当した日本人女性は、これを日本人に分かりやすいように意訳したらしい。
しかしそれを、英語に再翻訳して聞いたキューブリックが、
「下品さが足りない」
という理由で、直訳に変えさせた、という裏話がある。
キューブリックはよく、完璧主義者で、ささいなところでも時間や労力をかけることで知られているが、このように翻訳まで念入りに確認する丁寧さには、正直感服する。
キューブリックは本当に芸術家なのだろう。
まとめ
とまあ、この3つがこの映画の特徴であるが、少し長くなってしまった。
俺としても、こんなに好きな映画はなかなかないので、ついつい熱く書いてしまうのである。
最初にも書いたが、アマプラで見れるので、見たことない人は是非見てもらいたい。
ああいう映画を見てない奴に、映画を見る目なんか育たないだろうから。
俺も映画監督になりたい。
芸術を評価する人間は、リーダーとして大成する
着岸したのに上陸できない虚無な時間が続く。
しかし陸がすぐ近くにあるというのは、ある程度のストレス緩和にはなるらしい。
今日は少し気分がいいから。
ダイヤモンドプリンセス号の乗客みたいな気分を味わっている俺たちに、午前は有難い話を聞く時間が与えられる。
なんだが慰問を受けているようだ。
こんなことを受けるなら、刑務所には入りたくないなあ。
機関長はただ単にぐだっていただけだが、船長ともなれば鬱陶しさは桁違い。
メモを取りに帰れと言うずうずうしさ。
とはいえ、これくらいやってもらった方が、こっちも少しくらい意味のある時間を過ごしている気がしてくるので、まあ良かったのかも知れない。
最前列にいるせいで、訳の分からんタイミングで指名が入る。
「では、目の前にいるふじきくん」
なんで俺のアダ名知ってんだ。
この船で知ってるの、実習生でも2人くらいだと思うけど。
当てられたことにはいい気はしないが、皮肉にも船長との距離が縮まった感じ。
何て答えたのか覚えてないが。
話が終盤にさしかかってきたころ、ようやく話が船から離れてくる。
高年者の人生哲学みたいな。
あるいは、自分の話がしたいだけの自慢なのか。
「人の気持ちを理解するには、本を読むことです」
うーん、言ってることは正しいんだけどね。
その正誤に関わらず、どんな理由であれ、本を読ませようとしてくる大人は嫌いなんだ。
夏目漱石の話から始まり、小説こそが著者や主人公の体験を追体験するものだと語る。
ありきたりな理解だなあと思いながら聞いている矢先、だんだんと小説の理解は具体的になり、作品紹介みたいになってくる。
偶然も偶然、俺はちょうど1ヶ月前に、父親からもらって読んだばかり。
「あれを読むとね、私はいつも涙するんだけどね」
嘘だろ……
あんな御涙頂戴の元祖みたいな作品に……
思ってたほど読書ができない人なのかと疑り始めたが、そのあとに三島由紀夫の「潮騒」を挙げたのは、まあまあ評価できるセンス。
「金閣寺」を勧めるにも、あれは犯罪小説でもあるし、少し難し過ぎる。「仮面の告白」は若過ぎる、芸術的過ぎるし、「憂国」や「豊饒の海」を大衆に勧めるなんてもっての他。
なるほど、潮騒を恋愛小説として並べるのか。
参考になるな。
「日本人で唯一のノーベル文学賞を受賞した川端康成さんの『伊豆の踊り子』『雪国』とか」
え、大江健三郎が忘れられてる。
まあ大江は嫌いなのでスルー。
ちなみにイギリス在住の作家も受賞している、という船長の説明はおそらく、日本人の両親を持つカズオ・イシグロのことだろう。
俺はイシグロがノーベル文学賞を取る前に、既に有名だった「わたしを離さないで」を読んで、つまらないと思ってから読んでない。
そういや大学の健康診断で会った文学部の学生が、順番待ちの時に黙々と「忘れられた巨人」を読んでいたが、あれは面白かったんだろうか。
最後に船長が「人間の条件」を挙げる。
え?
この人、ハンナ・アレントなんか読んでんの?
へえ、アレントか。
全部理解できた自信はないけど、結構すごい本だったよなあ。
と、思ってたら、まさかの五味川純平の方。
くそ、そっちかよ。
文庫で6冊くらいあったし、2冊くらいでやめちゃったよ。
そんな面白くなかったし。
あんなの読むくらいなら、ノーマン・メイラーとかのノンフィクション戦争小説を読んだ方がいいっての。
大体、戦争小説を学生に勧めるってどういうこと?
阿部公房みたいな詐欺平和主義者なの?
本当に戦争を理解したいのなら、ノンフィクションか、実際の資料じゃなきゃだめ。
そうしないとすぐ、韓国、中国みたいな利己的歴史歪曲主義が育つんだから。
そんなアイデンティティのための歴史教育の意義も理解してないやつに、教育者の資格なんてないだろ!
とまあ、こういうのは心で呟くに留めておく。
たかだか船員の講師に、歴史教育哲学を語っても仕方ないからね。
さてさて、しかし船長が読書好きという事実は、俺にある種の自己肯定感と、それ以外にも色々なものを与えたりする。
前者の自己肯定感というのは、つまり俺のやってきたこと(寝る間を惜しんで小説、映画に没頭したり、小説を執筆する等の芸術的活動)が、社会的な正しさを少なからず伴っていた、と思えるということだ。
社会的に大成した人間が言うのだから、間違いない。
しかし、そういった芸術に関する教養が、社会的な適合意識を増長させることは、だいぶ前から知っていた。
今までにも、社長とか宇宙飛行士とかの講演を聞く中で、そんな話が何回も出てきたからだ。
じゃあ、それ以外は?
肯定感以外に、何を感じるか?
それは、まあ、その時々でさまざまだけど。
不安、憂鬱、焦燥。
浮遊感を抱いたこともある。
今回は、うーん、少し孤独を感じた気がする。
船長の独りよがりな話すらも流して聞くことができないし、せっかくの本好きだというのに共感も同情も感じなかったわけだから、これから先どんなに近い趣味の人間と出会っても、また今日みたいに斜に構えてしまうんじゃないか、という些細な孤独なんだけど。
やはりいい気はしない。
これだから、本を読むのがいい、という主張には、俺は素直に喜べないし、頷けないんである。
男が化粧をする時代
船で生活してるのに、すげぇ厚化粧の女子を見つけてしまったので、暇つぶしながら書きます。
ネットの接続は悪いし、キーボードじゃないから打つの遅いし、ホントにブログなんか船の中でやるもんじゃない。
で、厚化粧の女を見てよく思うのは、そこまでして化粧しなくちゃいけないのか?というお決まりの男的な疑問と、なぜ女ばっかり過度な化粧するんだ?という一度は考えたことあるだろう疑問。
でも、後者のそれに関しては、実は答えを知ってるのだ。
聞いたことある人もあるかも知れない。
それは、日本が戦争をしたからだ。
戦争をすると、男は軍人となって戦いに赴かねばならないので、化粧をする文化が廃れたというわけ。
じゃあ戦争をする前は、男も化粧をしていたのか?とかいう質問を受けたことがあるが、そんなことを知らない人がいたことに、俺が驚いてしまった。
当たり前だ。
江戸時代は男女ともに化粧をしていたし、しかも男の方が化粧が濃かったのだ。
それが何故か、と説明しようとすると、男は〜、女は〜、という俺の嫌いな男女仕分けの解説をせねばならないので、ここではしない。
しかし、たしかに戦争と化粧を結びつけるのは難しい。
そこで、外国の例も挙げる。
つまり、仏、独、伊、英、蘭という戦争を経験した先進国すべてで、実は同様の変化が起こっているのである。
戦争をすると、男は化粧をしなくなる。
これは紛れもない事実なのだ。
前にも書いたが、戦争とは、社会の人間の数を競うもの、つまり女子供をたくさん殺した方が勝つ。
だから男が盾となって、優先的に戦場に送られるわけだし、女には、化粧を含めた文化を後世に継承してもらう役割が、必然的に押しつけられる。
戦争は、間違いなく男女格差を大きくする。
この文化が、未だ先進国に根付いて取れない。
じゃあ戦争に反対する、戦争から回復するということは、男が化粧をするということなのか?
ワックスとかヘアジャムとかじゃなくて、もっと女の何倍も手入れをするような?
それなら俺も明日から、すんごい化粧に挑戦しようかしら。
そして気持ち悪いとか言ってくる女がいたら、戦争賛同者だと言って、徹底的になじってやろう。
しかし、男が(過剰な)化粧をしないのは世界全体の常識でもあることを考えると、やっぱり戦争なんか、そこら中で起こってるわけだ。
戦争は他人事だと思ってる人。
あと、たまにいる「日本は第二次大戦以降、戦争をしていない」とか衝撃的なことを言う平和ボケども、今すぐアフガンに目を向けてみよう。
とうとうタリバンが政権を取ったぞ。
これから男が皆殺しにされ、女への侵略と虐待が始まる。
昨日はドイツの記者が殺され、女学校が閉鎖されたところだ。
あと調べたところによると、アフガン西地方の村が占領されて、数百人の女が真夜中に整列させられて、順番にレイプされてるらしい。
マジで、第二次大戦で負けた後の占領下の沖縄みたい。
あの時は、女が沖縄本島の山に集められて、順番に犯されてたらしいけど、そういうの聞いてると、冗談でもレイプって笑えないのよね。
さて、こんな最中に、世界からはアフガンに自衛隊の派遣要請があった。
よし、今すぐ派遣しよう。
すぐに派遣しよう。
戦争は人類の問題だ。
そして、日本は間違いなく、今後も戦争をすることがあるだろう。
まあ日本が手をかけるのは中国だろうけど。
いつ戦争になってもおかしくないところにまで来てる。
そこで、俺が小さい頃から言われてきたことを、日本の戦争に言っておく。
一度失敗したくらいで、くよくよするな。
一度負けたくらいで、落ち込み過ぎなんだ。
どの国だって、戦争に負けたことくらいあるだろ。
日本には戦う力があるはずだ。
そんなことを、麵麭のような厚顔の化粧を見ながら考えた。
日本みたいな国に住んでるんだから、せめて女性くらいは政治に声をあげてほしいものだなあ。
おやすみなさい。
どうして相対主義がダメかって話
どうにも頭のお堅い老害というのが、しばしば武士のような献身的態度よりも、ただ気の違ったリベラル思想家だったりするのは、どうしてなんだろうと考えたことは、あるようでないのではないでしょうか。
彼らのような老害に対抗するために、わたしたち若者はどのような考え方をするべきか。
わたしの見受けた限り、確かに現代の若者のみなさんは、優しくて、現実主義的で、お利口で、立派です。
情熱に欠けて、退廃的になることをも恐れて、あるいは過度に臆病なところも、わたしはそんなに嫌いじゃない。
でもひとつだけ。
馬鹿
頭が悪いのは良くない。
頭がいい人もいるにはいるんだろうけども、単純な思考回路というか、特に数学的なところが異常なまでに弱い若者が多すぎるような気がするから、ここでブログ管理者のわたしが、自分のことを棚に上げつつも、若者の可哀想な現状を憂おうというのです。
さて、思考力を試す意味でも、ここで数学の問題。
ホントに簡単な問題。
次の論理は間違っています。何故でしょう。
この世界に絶対なんてない。
絶対に正しいこともない。
だから絶対の正義なんてものはなくて、それぞれに違った正義がある。
だから自分が絶対に正しいと思い込むことは間違っている。
ちなみにこれは、知人の女の子がnoteで書いてた内容なわけで。
きっと自分が正しいって信じてるような奴とグループワークとかやって、いろいろ思うところがあったんだろう。
最近の大学ってやけにグループワークとかやらせたがるからね。
わたしもよく分からん実習授業でカッター漕がされて、艇長と色々あったから分かるなあ。
まあ、それを見て今回の記事を書こうと思ったんだけど、これはまるで、あれを思い出すね(書きながら思い出せずに戸惑ってる)。
なんだったっけ、あいつだよ、あいつ。
わがままなお父さんとわがままな夫を持ったせいで26歳で服毒自殺した女の人。
あ、そう、金子みすゞだ。
「みんな違ってみんないい」っていうのが「わたしと小鳥と鈴と」っていう詩にあって、わたしはすごく好きなんだけど、ここでは申し訳ない、その考え方を否定させていただく。
みんな違ってみんないい、っていう考え方は、実は間違ってるということ。
さて、だらだらと時間稼ぎも終わり、さっきの問題の答え合わせ。
実はそんなに、というか全然、難しくないんだけど。
「この世に絶対に正しい」なんてものはないって断言しちゃってる時点で、自分の考え方を主張しようとする文章全体が意味を失っている。という矛盾について。
つまり、「正しいことはない」という考え方は、絶対に正しいわけがないんです。
だって正しいことはないんだから。
もしこれを「え、そんな単純なこと?」って考えた人は、あらゆる応用力に欠けています。
いろいろと出直してきてください。
この問題を昇華させると、実はどんな高尚な議論をも可能にすることができるわけ。
どれくらい高尚なのがあるのかって言われると、俺が知ってる限りでは、神に関する議論とか。
宗教を持たない人、神その他諸々の絶対的存在を信じていない人、特に日本人には多いだろうから、ひとつ訊いてみよう。
論理の問題です。
「全知全能の神がいないことを証明してください」
さて、これが答えられないんだったら、君たちに神を馬鹿にする資格はないのだ。
まるで「悪魔の証明」だとでも言いたがる連中がいるけど、こういうときに、先の理論の考え方が役に立つわけなんだよねえ。
こういうのは、もちろん背理法で証明する。
最初に提示した理論は、つまり背理法の解き方を暗示したものだということに、まずは気づいて欲しいんだけど。
というわけで、「全能の神がいる」という前提のもとで、次のような仮定を立ててみるのである。
全能の神は、自分が持ち上げられない石を創造することができるか?
これが仮にYESなら、
神は自分の持ち上げられない石を創造できる
→神はその石を持ち上げられない
→神は全能ではない
これが仮にNOなら、
神は自分の持ち上げられない石を創造できない
→神は全能ではない
というわけで、どちらにせよ、全能の神なんてものは存在しないわけです。
これを全能者のパラドックスと言います。
机上の理論だけで全能者の存在を否定する理論というわけです。
ここで問題になるのは、神の全能性が否定された今、はたして宗教がどのような意味を持つのか、ということです。
宗教とはいわば、神を信ずる者は、その神の全能性によって救われる、というのが加護の教えでありますから。
しかし全能性だけが、宗教の本質ではないことは、無神論者にも理解されることだろうと、私は思います。
と言いますのも、そもそも日本の神道の場合は、神は全能ではないのです。
神道は自然を崇拝していますが、それなら災害によって人間を殺戮するような自然を、どうして崇めることができるでしょうか。
言うまでもないでしょうが、宗教の本質は、全能ではなく正義なのです。
この世に絶対に正しいものは存在する。
その考え方を強めるのに、神という存在を用意することは非常に便利なのです。
相対主義が間違っている、というのは最初に証明しましたが、そこで難しいのは、では絶対の正義はどこにあるのか、という問題なわけです。
絶対の正義があれば、生きることはとても楽になる。
なぜなら、その通りに生きるだけで、正しく生きることができるんですから。
さて、「この世に正しいことはない」という考えは間違っているのに、絶対に正しいことが見つけ出せない現代人のみなさま。
もう少し、頭を固くして、老害のように生きるのも、一つの手立てかもしれません。
忘れないで欲しいことは、絶対に正しく生きることなんてできない、ということだけです。
いわば法律を破らずに最期まで生きることができないように、どれほど正義感にあふれた人間でも、場合によっては無意識に、間違ったことをしているわけです。
そんな欠陥ばかりの人間を愛することができる人こそ、楽に生きられるようになるはずです。
言うまでもなく、筆者はそんなことはできていないのですが。
これからも、死に物狂いで頑張って、なるたけ楽しく生きましょう。