読書家のための偏見作品紹介

主に小説の紹介、書評で人生を設計したい

どうして相対主義がダメかって話

どうにも頭のお堅い老害というのが、しばしば武士のような献身的態度よりも、ただ気の違ったリベラル思想家だったりするのは、どうしてなんだろうと考えたことは、あるようでないのではないでしょうか。




彼らのような老害に対抗するために、わたしたち若者はどのような考え方をするべきか。


わたしの見受けた限り、確かに現代の若者のみなさんは、優しくて、現実主義的で、お利口で、立派です。


情熱に欠けて、退廃的になることをも恐れて、あるいは過度に臆病なところも、わたしはそんなに嫌いじゃない。



でもひとつだけ。


馬鹿
頭が悪いのは良くない。


頭がいい人もいるにはいるんだろうけども、単純な思考回路というか、特に数学的なところが異常なまでに弱い若者が多すぎるような気がするから、ここでブログ管理者のわたしが、自分のことを棚に上げつつも、若者の可哀想な現状を憂おうというのです。



さて、思考力を試す意味でも、ここで数学の問題。

ホントに簡単な問題。



次の論理は間違っています。何故でしょう。




この世界に絶対なんてない。


絶対に正しいこともない。


だから絶対の正義なんてものはなくて、それぞれに違った正義がある。


だから自分が絶対に正しいと思い込むことは間違っている。



ちなみにこれは、知人の女の子がnoteで書いてた内容なわけで。



きっと自分が正しいって信じてるような奴とグループワークとかやって、いろいろ思うところがあったんだろう。

最近の大学ってやけにグループワークとかやらせたがるからね。



わたしもよく分からん実習授業でカッター漕がされて、艇長と色々あったから分かるなあ。



まあ、それを見て今回の記事を書こうと思ったんだけど、これはまるで、あれを思い出すね(書きながら思い出せずに戸惑ってる)。



なんだったっけ、あいつだよ、あいつ。



わがままなお父さんとわがままな夫を持ったせいで26歳で服毒自殺した女の人。



あ、そう、金子みすゞだ。



「みんな違ってみんないい」っていうのが「わたしと小鳥と鈴と」っていう詩にあって、わたしはすごく好きなんだけど、ここでは申し訳ない、その考え方を否定させていただく。



みんな違ってみんないい、っていう考え方は、実は間違ってるということ。




さて、だらだらと時間稼ぎも終わり、さっきの問題の答え合わせ。



実はそんなに、というか全然、難しくないんだけど。



「この世に絶対に正しい」なんてものはないって断言しちゃってる時点で、自分の考え方を主張しようとする文章全体が意味を失っている。という矛盾について。




つまり、「正しいことはない」という考え方は、絶対に正しいわけがないんです。



だって正しいことはないんだから。




もしこれを「え、そんな単純なこと?」って考えた人は、あらゆる応用力に欠けています。

いろいろと出直してきてください。




この問題を昇華させると、実はどんな高尚な議論をも可能にすることができるわけ。



どれくらい高尚なのがあるのかって言われると、俺が知ってる限りでは、に関する議論とか。



宗教を持たない人、神その他諸々の絶対的存在を信じていない人、特に日本人には多いだろうから、ひとつ訊いてみよう。


論理の問題です。



「全知全能の神がいないことを証明してください」



さて、これが答えられないんだったら、君たちに神を馬鹿にする資格はないのだ。



まるで「悪魔の証明」だとでも言いたがる連中がいるけど、こういうときに、先の理論の考え方が役に立つわけなんだよねえ。



こういうのは、もちろん背理法で証明する。


最初に提示した理論は、つまり背理法の解き方を暗示したものだということに、まずは気づいて欲しいんだけど。



というわけで、「全能の神がいる」という前提のもとで、次のような仮定を立ててみるのである。



全能の神は、自分が持ち上げられない石を創造することができるか?




これが仮にYESなら、

神は自分の持ち上げられない石を創造できる

→神はその石を持ち上げられない

→神は全能ではない




これが仮にNOなら、

神は自分の持ち上げられない石を創造できない

→神は全能ではない




というわけで、どちらにせよ、全能の神なんてものは存在しないわけです。




これを全能者のパラドックスと言います。




机上の理論だけで全能者の存在を否定する理論というわけです。



ここで問題になるのは、神の全能性が否定された今、はたして宗教がどのような意味を持つのか、ということです。



宗教とはいわば、神を信ずる者は、その神の全能性によって救われる、というのが加護の教えでありますから。



しかし全能性だけが、宗教の本質ではないことは、無神論者にも理解されることだろうと、私は思います。



と言いますのも、そもそも日本の神道の場合は、神は全能ではないのです。


神道は自然を崇拝していますが、それなら災害によって人間を殺戮するような自然を、どうして崇めることができるでしょうか。



言うまでもないでしょうが、宗教の本質は、全能ではなく正義なのです。





この世に絶対に正しいものは存在する。


その考え方を強めるのに、神という存在を用意することは非常に便利なのです。



相対主義が間違っている、というのは最初に証明しましたが、そこで難しいのは、では絶対の正義はどこにあるのか、という問題なわけです。



絶対の正義があれば、生きることはとても楽になる。



なぜなら、その通りに生きるだけで、正しく生きることができるんですから。



さて、「この世に正しいことはない」という考えは間違っているのに、絶対に正しいことが見つけ出せない現代人のみなさま。



もう少し、頭を固くして、老害のように生きるのも、一つの手立てかもしれません。



忘れないで欲しいことは、絶対に正しく生きることなんてできない、ということだけです。



いわば法律を破らずに最期まで生きることができないように、どれほど正義感にあふれた人間でも、場合によっては無意識に、間違ったことをしているわけです。



そんな欠陥ばかりの人間を愛することができる人こそ、楽に生きられるようになるはずです。



言うまでもなく、筆者はそんなことはできていないのですが。



これからも、死に物狂いで頑張って、なるたけ楽しく生きましょう。