今こそ神秘主義の奥深さを知ろう
別に地上波放送じゃなくても、年に2・3回はDVDで見てるくらいに好きなんだが、あれをまともに議論してくれる人といまだ出会ったことがない。
これだけ人気な作品なのにちょっと悲しい、と思う時期はかなり前に過ぎ去ったけれども。
とはいえ、これの理解が難しいのは、実はジャンルの問題だったりする。
これはSF・ファンタジーにあたる「空間」を重視したジャンル性と、男と女の連続的な(←かなり重要)ボーイ・ミーツ・ガールを描いているので、どちらで楽しむこともできる反面、その境目として見ることができない人が多いのだろう。
俺は両方とも特に好きなので、それが好みに合っているんだろうけど。
実はこの「もののけ姫」のジャンルの問題性を意識するようになったのは、皮肉にも、去年に再履修で取った総合教養科目「文学A」の授業のおかげだった。
その講義は主に「ユートピア」について扱い、講義のたびに与えられるテーマに対して、自分の感想を述べるという間接対話形式だったので、俺には持ってこいだった。
で、その最終課題が「キリスト的世界観と神秘主義の相違」だったので、そのフィードバックに俺は「もののけ姫」を引用したわけである。
俺も講義を受けるまで知らなかったのだが、特に古老的カトリック宗派のキリスト教というのは、自然を全力で嫌っていたらしい。
それは、神の幾何学に反するから。
キリスト教の教えでは、地球は神によって作られたとされている。だから地球はきれいな球体の形をしているのだし、地上は平たんにできている。
だが、それを真正面から邪魔するのが「山」というわけだ。
山が地上にあることで、地上の水平的均衡が破られるし、地球も球体ではなくなって見える。
それがキリスト教徒には許せなかったらしいのだ。
授業では、むかしのキリスト教徒が登山中に書いた日記が紹介されていたけども、まあ山や草木のことをボロクソに書いていてびっくりした。
一刻も早く山を越えたい、早く地上に降りたい、と執拗に訴えるし、あるいはその感覚が、思いのほか理解できなかった俺自身にも、さらに驚くわけである。
たしかに、俺は自然が嫌いだったことはあまりない。
アウトドアではないし、真正面からのインドア派だけども、それでも日光浴とか森林浴とかの心地よさは理解できるし、なにより自然環境は大切にしなくちゃなと思っている。
まあ最後の環境保護というのは社会的な教育によるものだろうが、自然の心地よさが理解できないのはどうしてなのか、と考えて、実はこれがアジア特有の神秘主義だと知ったんである。
とくに日本は、自然の神秘を尊崇している文化がある。
それは自然災害が多いからだ、と俺は考えている。
日本人にとって、自然というのはもともと、完全に人間の支配下に置くことは不可能だと思われているのだ。
この感覚が、いわゆる震災などの大災害に陥っても、日本人が海外よりも平静に行動できる最大の要因だろう。
海外では自然が人間に逆らうのは、まず有り得ないと思われがちだから、少しの災害でもパニックになる。
俺の知ってる実話だと、たしか俺が高校生の頃に、ロンドンで震度3の地震が起こっただけで、すべての鉄道が止まったり、会社員が仕事どころじゃなくなって全員帰宅したり、そのパニックに乗じて盗み放題、食べ放題(何度も言うけど、実話だよ)。
いやあ、俺なんて昨日も震度2を2回も食らったばかりなのに、何もなかったかのように寝てたよ。
とまあ、こんな風に、海外では自然と人間の距離が大きい。日本よりははるかに。
それが「もののけ姫」の対立構造だって、まずはそこを理解できてるんだろうか?
超自然的な魔力を持つシシガミの森と、自然を征服しようとする国家、エボシ率いるタタラという国に、戦争が起こっているということ。
この神秘主義と神の幾何学の対立は、もののけ姫で十分補完的に描かれているから、もう他の小説や映画で描いても仕方ないだろうね。
どうせ、もののけ姫よりすごいのは無理だろうしさ。
少し長くなったので、とりあえず今回はここまで。
次は物語の構造を理解した上での、ボーイ・ミーツ・ガールを構成するキャラクターを掘り下げるよ。