<レビュー>富豪というわりに常識的な筒井
富豪刑事の1話を見る。
原作を読んでいるせいか、テレビにかじりつくほどの期待はしておらず、気がつけば放映から2日が経過していて、録画を見た情けなさ。
なんせノイタミナであったことすら知らなかったのだ。
まあ見ただけよしとしよう。
原作との比較
原作は1978年と、思えば40年以上前。
自分の初読が8年前で、いやはや20年しか生きていない自分には遠い過去なのだが、40年の長さがまったく想像できなくなる。
そのせいか、アニメの東京は昭和が漂う風景で、原作の存在感を押し出している。
それでも現代のアニメファンの好みに合わせて、キャラクターは容姿、口調、服装と平成後期風になっている。
このアンバランスな手法は、SF的な未来趣向を思わせる作品によくあるやり方で、例えば攻殻機動隊なんかでは、技術がとんでもなく飛躍している設定に対し、90年代の街並みや生活感をそのまんま扱うことで、読者がすんなりと作品に入り込むことができるようになっている。
そういうのを容認するところが筒井康隆らしいけれど、そもそも「富豪刑事」は1985年に漫画化、2005年にドラマ化もしているから、今さら脚色なんてどうでもいいのだろう。
「時かけ」を細田守がアニメ映画化したとき同様、時代に合わせて変えてくれて構わないと考えているあたり、星新一とはまったく異なるタイプの、時代に左右されない文学性を感じる。
台詞なんかも原作とは全然違うし、キャラクターはCV宮野真守のイケメンで筒井康隆らしくない。
それでもオープニングで「原作 筒井康隆」のクレジットを見ると、巣に帰ってきたような安心感を覚える。
そして最も筒井康隆らしさを感じたのは、大助がスーパーカーを奪って追いかけるシーン。
路上で「危ないだろっ」と怒鳴っている老人、どれだけの視聴者が気づいたかは分からないが、明らかに筒井本人である。
見た目も声も、ファンなら誰だって一瞬で気づくし、そもそも筒井ファンは、筒井の作品のメディアミックス化したものを見るとき、筒井康隆が出演していないかと目を光らせているもの。
久しぶりにメディアミックスした作品で、昔ながらのカメオ康隆を見れて、興奮を抑えられない。
エンディングのキャストクレジットに、名だたる声優と並んで「筒井康隆」の文字には笑った。
やっぱり好きだなあ。
1話の評価
アニメの幕開けとしては、ひねくれた小説が原作のわりに、かなりうまくまとめている印象を受ける。
とがりすぎず、むしろ定番ではあって、しかし作品の魅力は出した、と。
具体的に言えば、ストーリーには何の特徴も見受けられなかったが、設定と演出、とくにキャラデザとキャスティングが売りのようである。
まあ要するに、女性受けを狙っているわけだ。
しかししまりがいいことの要因として大きいのは、やはり脚色を大幅に変えて、ストーリーを借りただけの全く別の作品に仕上げているからだろう。
これが原作本来の役割であって、例えば原作に忠実でなかったり、変更を認めるにしても自分が満足しないと許さないというような、強情で思い上がりの激しい原作者だったら、こうはいかない。
俺の持論を言えば、
漫画原作→原作の迫力をいかに再現するか
小説原作→練られたストーリーを借りて、監督が持つキャラクター性をどうやって生かすか
が問われているのだと思う。
この違いはメディアで重要視されているものが何か、ということによる。
つまり、アニメと漫画は、ストーリーよりも演出が大事だということ。
その点、映画では音が一番大事、ドラマは演技が一番大事とも聞く。
小説は最も自由な媒体で、何を優先してもいいから困る。
だからアニメ化向き、ドラマ化向き、漫画化向き、とあるのだろう。
原作との変更をすべて容認するのが売れるというのは、東野圭吾がよく示してくれているから、今さら言うまでもないはずなのだが、先ほど言った偉そうな原作者は、今になってもなぜ生まれるのかが分からない。
そういうやつは世間から無視されるから、気にしないでおこう。
そのような原作者以外にももうひとつ、アニメ化がくだらないものになってしまう小説原作としては、最近のラノベ原作者に多いのだが、アニメが大好きな作者が、アニメを意識して作品を書いてしまって、そもそもの原作がアニメっぽいというものがある。
これもまた全然面白くなくて、なぜならアニメ監督の、その人が持つ個性が発揮しづらくなるからだ。
原作がアニメからかけはなれたところから、どうやってアニメにもってくるかが監督の問われる技術であって、その方がカット割りもアングルもキャラクターも、自由がよく効くわけだ。
根っからの文学者、小説家の作品を、才能のあるアニメ監督がアニメーションにする。
やっぱりこれが1番面白いね。