読書家のための偏見作品紹介

主に小説の紹介、書評で人生を設計したい

<書籍紹介・レビュー>フランス版・罪と罰

いい本を読んだ。



というか見つけた。



歴史小説家が宣伝していたので購入してみたが、まだこんな本が眠っていたとは。



紹介とレビューと、いろいろしたい衝動に駆られたのだが、そういうことをしたくなる衝動に駆られるのは、それだけこの本が思弁的だからだ。



「そういうこと」というのは、つまり他者と感想を語り合いたいということである。



自分は「ベストセラー」とか「○○賞」とか言われるほど、読む気が失せる天邪鬼なので、自分好みの本については、レビューは書いても紹介はしない。



つまり自分の感想を聞いてほしいという顕示欲はあるのだが、別にほかの感想が聞きたい、あるいはそうすることでこの作品への理解を深めたいという欲がない。



むしろ自分ひとりで、その作品の余計なところには目をつぶって楽しみ、その快楽を他人に邪魔されたくないのだ。



「語らう」というのは、互いの価値観を「ぶつける」ことで、理解をすりあわせていくもので、実はけっこう勇気のいることだと思っている。



しかしこの本は、自分の快楽を楽しんだ上で語らいたいという、まるでハルキストが言い出しそうなことを思った。



これは古典小説に多いタイプで、なによりこの本は古典だ。

なんのひねりもないように思えるが、これが特異なのは、古典なのにまったく有名でないことだ。



古典とは有名であるから古典と呼ばれるのであって、だからこれは古典でなく古書ではないのかとも考えてしまう。



そこに深く触れて紹介する。


作品紹介

赤い橋の殺人 (光文社古典新訳文庫)

赤い橋の殺人 (光文社古典新訳文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
19世紀半ばのパリ。急に金回りがよくなり、かつての貧しい生活から一転して、社交界の中心人物となったクレマン。無神論者としての信条を捨てたかのように、著名人との交友を楽しんでいた。だが、ある過去の殺人事件の真相が自宅のサロンで語られると、異様な動揺を示し始める。19世紀の知られざる奇才の代表作、ついに本邦初訳!

この記事のタイトルである「フランス版・罪と罰」というのは、宣伝帯にそう書いてあったからだ。



本屋で手に取るときには、この文句でそそられてしまったし、実際に手にした人のほとんどは、この宣伝文句に惹かれたようなのだ。



くりかえすが、自分は某作家の宣伝でこの本を買おうと決心したわけで、しかしそれ以前にもこの本を見た時点で期待値は高かった。



理由は単純、フランス文学だから

自分は仏文学が大好きだし、世界で最もレベルの高い文学だと思っている。



最近気に入っているのはミシェル・ウェルベックだ。

素粒子」「服従」「地図と領土」「ある島の可能性」などなど。

素粒子 (ちくま文庫)

素粒子 (ちくま文庫)

服従 (河出文庫 ウ 6-3)

服従 (河出文庫 ウ 6-3)

地図と領土 (ちくま文庫)

地図と領土 (ちくま文庫)

ある島の可能性 (河出文庫)

ある島の可能性 (河出文庫)

どれをとっても面白い。



しかしなぜフランス文学はそんなにすごいのか。



その理由は当然、フランス人が読書家だからだ。

フランスでは本が売れる。

だから作家は自分の書きたいものを好き勝手書けるし、レベルの高い新人も生まれやすい。



なぜ日本ではアニメのレベルが高いのかと聞いているようなものだ。

いい作家が育ってほしいと思うなら、率先してその作家の本を買い、周囲に進めるべきなのだ。



ちなみにこの本は古典だが、それでもフランス人が読書家なのはむかしからだから、期待できることに変わりはない。

そういう意味で、この作家の特異的な立ち位置について、すこし触れておきたい。





無名の仏文学者

おどろくことに、この本が出た経緯はなんと、この作家の研究者が直談判で出版社に頼み込んだのだそう。



そしてその研究者というのは、この本の翻訳者、つまり日本人だ。



そしてフランスでは古典扱いではあるものの、街ゆく人はだれひとり知らないといっていいほどの無名だそうなのだ。



まったくそんなものをよく出そうとしたものだと感心するが、たしかに葛飾北斎は世界であれだけ有名なのに、あるいは世界で有名になったから日本人も歴史教育でとりいれたものの、実際のところの国内評価はあまり高くなかったそうだから、それと同じことなのだろう。



読んだところ、別に「特段日本人に向いている」とか、そういうことを思ったわけでもなかったので、やはり知られていないだけだと思う。



やっぱりフランス文学には、もっとほかに目を向けるべきすごい作家が多いのだろう。



うらやましい限りだし、日本もぜひそうなってほしいのだが。





フランス版「罪と罰

たしかに帯に書いてあるとおり、罪と罰と同じようなメッセージ性とストーリー性をはらんでいる。



こちらの方がすこしエンタメ性を感じたが、むしろ自分はそちらの方が好みだし、実際に本家の罪罰よりこちらのほうが好きだ。



ただ重厚感が劣っているとは感じた。

しかしそれは単純に物語の長さの問題だ。



物語の重厚感というのは、よほど文章やテーマが浅くない限り、物語が長くさえあれば勝手に濃く感じられる。



だから作品というのは長すぎる(数巻にわたるようなもの)と、単純な評価がしづらくなる。



その重厚感のせいで、一巻完結のものより評価が高くなりがちだから。



それに長く続く作品というのは、出版社から続けることを許してもらえているくらいには売れているということだから、必然的に評価が高くなりやすい。



その点、ドストエフスキーの罪罰は全四巻だから、これよりも印象に残りやすいのだろうが、そのハンディキャップを抜いて考えるのなら、自分はこちらの方が高く評価できると思う。



それにこちらのほうが罪罰よりも早く書かれたものだから、罪罰の方が影響を受けたかもしれないのだ。





レビュー

シナリオ 
構成 
文章 
キャラクター 
世界観 
総合評価 
おすすめ度 

すでにけっこう語ったが、やはり評価は高い。

しかし欠点を挙げるとすれば、単純に古さを感じたということだ。



新しさというのは大事。

それは古典であっても同様で、むしろ本当に優れた小説は古さを感じさせないからすごい。



そしてなぜ感じないのかといえば、たとえば映画やアニメであれば、映像技術の問題がある。

むかしの技術は古さを大きく感じてしまうし、だからリメイクが作られるわけなのだが、小説というのは文章であって、まったく古びることなく、当時のまま残るからである。



だから自分は作品を評価するとき、


当時のレベルで考えるとすごい

時代をこえて読まれているからすごい

ほかの文壇がこう評価しているからすごさが分かる


などという色眼鏡はかけない。



自分は古典であっても、すなおに今の時代の人と比べて、すぐれているかどうかを判断している。



そして現役作家とは、当然むかしの文学に影響をうけて、むしろそれを超えるものを書こうと、もがいている人たちだ。



そんな相手には到底かなうはずがないし、だから小説は99パーセントが消えてなくなるのだが。



ちなみにいえば、逆に古典ばかり好んで読んでいる者の感想も、表層的な感想ばかりであてにならない。



すでに評価が定まってしまって、ある程度の完成度が約束された作品ばかり読んでいるから、彼らは自分で評価することができない。



さらには古さを感じさせない、斬新なものばかり読んでいるから、当時は何が流行っていて、何が古くて、その作品の何が新しいのかすらも分かっていないで読んでいる者も多い。



周囲だったり、あるいは文壇のプロは批判しているけど、自分はここはこのように評価する、などのような現在進行形の評論ができない。



時代の中で消えていく小説を読んでいるからこそ、その中で後世に読み継がれる小説のよさに気づくことができるのだ。



ちなみに先ほどから、まったくストーリーや内容に触れていないのが分かるだろう。



それはこの本のストーリーが、それだけありきたりだということだ。



それだけなんの宣伝にも特徴にもならないし、逆に評価が分かりにくくなるということ。



たとえばこの本では宗教が出てくる。

それは海外文学を読まない日本人にとっては斬新かもしれないが、あいにく自分はキリスト教も仏教の小説も腐るほど読んできているし、いまさらイエスのはなしをされても何も新しいと思わないのだ。



そしてなにより、とくにストーリーの面で、いまのエンタメ作家に負けている



そんなのあたりまえだと思う人にはいっておくが、ストーリーで優れている古典は今だって余裕で通用する



エドガー・アラン・ポーなんかは、地球の中身が空洞になっているという設定の元で、地球の中を長旅で探検するという短編を、1830年代に書いている。(タイトルは「ハンス・プファールの無類の冒険 」)



この本にかなうエンタメ本は、最近の本でも少ないと思っているし、こういう本が本当にすごいストーリー本という。



国内でも竹取物語南総里見八犬伝なんか、いまのエンタメ作家でもかなわないスケールだし、なによりめちゃくちゃ面白い。



だからそんなものがある中で、この本のストーリーは残念と言わざるを得ない。

もう少し想像力があってほしかったと、そう思うわけである。





おわりに

しかしこういう風に、無名の古典が発見されるという事態に遭遇したのは初めてかもしれない。



そういう意味で、またひとつ新鮮な体験をしたと感動しているし、実際になかなかないことではないだろうか。



国内でもこの本を含めて2冊しか翻訳されていないそうだから、今後に期待できる作家(むかしの作家だけれど)である。



翻訳者には大いに感謝した次第。